« 2014年7月 | トップページ | 2014年12月 »

天文易という呼称について

天文易という言い方がある。

この名前を最初に知ったのは、初代潮島郁幸先生の『天文易』だった。この中で、この天文易は永鳥真雅先生が創始したとある。内容は、土占い(ジオマンシー)のシステムを使ったホラリーである。この占いは簡便でもあるし、占星術の持つ網羅性も有している優れた技法である。

ちなみに永鳥真雄先生は『考星術の研究』というテキストを発行しており、ここから隈本有尚先生の影響がうかがわれる方である。

この天文易という呼称であるが、阿部泰山先生が昭和四年に発行した『推命学活用吉凶開発伝』(後に再発行されて『天文易学六壬神課初学詳解』となる)の序文に「推命学活用吉凶開発伝一名天文易」とある。本の内容は六壬神課である。

この本の凡例では「一、本書は唯だ「天文易」と名称して発刊なすべき予定なりしも、天文易とのみにては星学又は天体に属する易占法と解釈せらるるを以て『推命学活用吉凶開発伝』と改称し諸賢の批判研究を乞はんとす。」とある。

このことを永鳥先生は知ってか知らずか、西洋の易のようなシステムであるジオマンシーを使い、また占星術を使ったものを「天文易」と呼称したのだ。阿部先生が懸念された「星学又は天体に属する易占法と解釈せらるる」を、そのままやったのだ。

ジオマンシーは明治期から盛んに紹介されており、一般の占い雑誌にも何度も掲載されている。占星術も隈本先生が明治期から雑誌等で盛んに紹介されている。この影響を受けた永鳥先生が工夫して作ったのだろう。

最初に阿部先生が六壬を「天文易」と呼称し、永鳥先生が土占いと占星術を組み合わせたものを「天文易」と呼称したということだろうか。だからなんだってことだが面白いと思う。

|

占う側と占われる側のミスマッチ

どうして占いが成立するのか、その謎は今もって分からない。占いに関わる人が、それぞれの考えのもとにやっているだけだ。どんな考え方であっても、それは個人の自由であり、なんでもありだと思う。

出てきたカードのシンボルが、神秘からのメッセージだと考えてもいいし、単にシンボルがクライアントの気づきになると考えてもいい。それはそれぞれの考えだ。

しかし、占う側の考えとクライアントの求めるものにミスマッチがあるのはどうだろう。

占う側は、カードは単に紙なんだから、そこのシンボルをただ相手に伝えて、そこから何らかの有益な気づきがあればいいと思っていても、クライアントは神秘的なメッセージだと考えているなんてのはミスマッチだ。

カードが単なる紙だと考えている人は、自分はカードは単なる紙だから、そこのシンボルを表現するので、あなたが自分で気づいてねと伝えるべきだ。

一番いけないのは、占う側がカードは単なる紙との考えで、クライアントにシンボルを伝えているだけなのだが、それをさも神秘的なメッセージを伝えていると宣伝することだ。

これはミスマッチであり、クライアントの要望にこたえていないことになる。

クライアントもカードは単なる紙で、そのシンボルを読んでもらうことで自分になんらかの気づきが起こればいいなと思って依頼をするなら問題はない。

結局、提供する側と受け取る側で、どういう考えのもとに、この行為が行われているのか、少なくともちょっとした合意がないとおかしいと思うのだが。

|

西洋占星術や占いを学ぶことについて

一日でホロスコープが読めるようになるかと聞かれますが、これは記号も御存じない方の場合は不可能です。

しかし、基礎的な内容を集中して数カ月学べば、それなりにホロスコープが読めるようになります。ただ、どこまで深くホロスコープを読むのかということでして、御自分が満足できるレベルまで何年かかるかは未定です。

習い事はなんでもそうですが、終わりはありません。

結局のところ、自分はこの辺でいいやという自分基準しかないのです。

私自身を振り返ってみると、まだこれで完成なんてとても言えません。私も学ぶ途上にいます。

これはすべての占いに同じことが言えます。自分の好きな分野を学ぶのは楽しいことです。スカイプでお一人で学ぶのもいいですし、集団講義で学ぶのもいい。集団講義の場合、同じ趣味を持ったお友達もできます。

私の集団講義ですが、講義が終わった後にお茶などをして和気あいあいとしています。

少なくとも占いを学ぶと世界の見方が根底から変わることは保証できます。学んでいる方の中には自分では気づいておられない方もいらっしゃいますが、共時性的なものなど、自分が特別な見方をしているのです。

宇宙の天体やシンボルが、なんで世界や自分を表現するのか不思議なのですが、この不思議な感覚は得難いものがあります。

|

いろいろな占いが頭の中で混じってくる。

昔から占いは雑食性で、無節操に学んできた。

とにかく興味の赴くままに、本を読み散らかしてきたのだ。

このやり方が正しいかどうかわからない。

とにかく面白いからやってきたのだ。

何十年か経過して、ふと占い的に考えると、あれこれの占いが混じってくる。

ひどい時には、タロットと九星と占星術が混じってしまう。

死神のカードと八白と冥王星がどうのこうのって感じなのだ。

その時感じる言葉にならない感覚。これが大事なのだ。

言語化される前の感覚は、なんとなくでもあるのだが、これが言語化されると一種の確信になってくる。

言葉から離れて、感覚からも離れて、しばらくじっとしている。

そうすると、感覚が戻ってきて、言葉が戻ってくる。

こういうことを繰り返す中で、シンボルと言葉がつながっていく。

・・・カードの絵に言葉を書く???

う~ん、絵がある意味が無いと思うのだが。

ましてや、言語化以前の感覚に触れることすらできないのだから。

占いが頭の中で混じってくることが良いかどうかは分からないが、言語化以前の感覚に少しは触れられるかもしれない。

|

« 2014年7月 | トップページ | 2014年12月 »