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私の読書術

術というほどのものではないのですが、どうも本のことを書くと、あれも書きたい、これも書きたいと思ってしまいますね。

それで、私は本好きです。最初に本に目覚めたのは父からのプレゼントでした。それがエジソンの伝記ものでして、何度も何度も読んだ記憶があります。それからというもの、学校の図書館で図鑑類、子供向けSF類など読み漁りました。小学生の頃にBCLに目覚めてからは無線関係の本も増えました。電話級をとる頃には、CQやラ製、初ラが愛読書でした。しかしです。理系に進むと思いきや、小学生の高学年あたりで、なぜかおまじないの本も読むようになりました。当時はノストラダムスが大流行でして、亡くなられた丹波哲郎氏の本や雑誌ムーなんてのもあり、どんどんそういう方面の本を読むようになりました。その過程で大きな影響を受けたのがルルラブア先生の「占星学の見方」です。この本はとても子供には難しくて、しかし、底知れない魅力があって、ズルズルと引き込まれます。後年、その占星術を占い学校で講義するようになるとは夢にも思わずに・・・。そうそう、この「占星術の見方」ですが、私のパートナーも中学生の頃にお世話になっておりまして、二人して懐かしい思い出を共有していたりします。

なんだか、読書術から離れているような・・・。

で、気を取り直して読書術です。

どんどん本がたまっていくことになりますが、全部を読みとおす時間がとれません。長い間、どうしたものかと悩んでおりましたが、尊敬しておりました学者先生の小論文で救われた記憶があります。今、書棚から掘り出したのが「読書のすすめ 第3集」岩波書店です。これは非売品でして、本の購入者に配布されたものなのでしょう。その中に故中村元先生の「読書による理解」があります。この中の一節を引用します。

「一つの書物を隅から隅まで理解することは困難であるならば、それはそのままでよい。ただ立論の骨子を自分なりに理解すればよいのではないか。そうしてその書物のうち採用すべき部分を採用し、価値の無い部分は、あっさり捨ててしまえばよいのではないだろうか。極端に言うならば、書物というものは、隅から隅まで理解できなくてもよい。ただ手もとに置いておいて、必要なときに再吟味すればよいのである。読書から得られる楽しみも大きいが、読書によって得られた知識が自分の知識体系の中のいずれかの場所に位置を得たことを知る喜びは、非常に大きなものがある。そうして究極的には、新たに読書によって得られた知識が、従前に自分の理解体得した知識の全体系のうちに組み込まれ、自分なりに生かされていればよいのである。」(「読書のすすめ 第3集」岩波書店、中村元先生著「読書による理解」より)

この一節にぶつかったとき、どれだけ気持ちが楽になったことか。中村先生には感謝しております。それからというもの、「そうか。それでいいんだ。」とばかりに本を買い漁ることが加速していきます。それまでに二度ほど本を処分していたのですが、この中村先生の論文に出会ってからは、本が増える一方です。ただ、本が増えた原因のもう一つとして、清水幾太郎著「本はどう読むか」講談社現代新書のP104「気になる本はまず買うこと」がありますが・・・。

うーん、やっぱり読書術ってほどのことは書けませんが、息切れしたのでこの辺で。

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本との出会い

恵比寿の街をセカセカと歩いていると、ふと思い出すことがあります。駅前にあった古本屋です。今は不動産関係のお店が入っています。このお店は名物の垂れ幕があって、そこに大きな墨字で何やら書いてありました。おそらく、そのお店の店主の直筆なのでしょう。面白いことが書いてあったことを思い出します。

この古本屋さんですが、ほとんど占い関係の本はなかったのですが、近くに本屋さんが少なかった関係で、よく立ち寄りました。店主の方も、よく立ち寄る変な奴だと思っていたことでしょう。ある時、そこで購入した岩波文庫の目録を見ながら「これを眺めているだけで読んだ気になるんだよねえ」「そうですね。本好きにはたまらんですよね」といった会話を交わしたこともあります。しばらくして、違う分野の本を購入すると、「あなたの仕事でもこんな分野を読むの」と言われたことがありました。よく考えると、ご店主は私の職業を知らないはずなんですが・・・。生徒さんあたりが、あれは占い学校の先生だと言ったのかしら?今もって謎です。

この古本屋さんに、一時期、高島正龍先生の本が連続して出没することがありました。おそらくですが、同じものが続けてあったので、新古本か何かを引き取られたのでしょうか。

今から数年前、例の如く、古本屋さんにフラっと立ち寄ったときです。この高島先生の本を棚から発見します。なんでこんなところにとの思いから手にとってパラパラと見ましたが、すでに持っていたので棚に戻しておきました。それからしばらくして、ある占いの研究家と会う機会がありました。その研究家は風水大家です。この方は私と同い年であり、頭脳明晰な方です。ただ、仕事柄、地方にお住まいです。この方がたまたま恵比寿に立ち寄られたとき、例の古本屋さんに時間つぶしか何かで立ち寄られます。そこで格安の高島本を購入されるのです。

私は、その話を聞いて「あ、本に呼ばれたんだ」と思いました。ここが本題。

後日、この高島本は、店先のワゴンに並びます。私は背表紙の傷を確認しながら、通るたびに、いつ売れるか、いつ売れるかと見ていました。当時は、この本が占い学校で話題でしたので、誰か生徒さんが買うだろうと思っていましたが、何ヶ月経っても買う人がいません。しばらく、同じワゴンに出ていたのです。その後、誰かが購入したかもしれませんが、あれだけ占い学校の生徒さんが通る道すがらで、誰も数か月買わなかったことが不思議でした。

ここで本題ですが、先ほどの「本に呼ばれる」現象です。本好きとしては、欲しい本を探し求めて何十年ですから、本に出会えないもどかしさに悩まされることは慣れっこです。ただ、ここ最近感じるのが、どうも本に呼ばれているのではないかという感覚みたいなものです。シンクロニシティなのか、関係妄想なのか不明ですが、私は出会うべき本は、本から適切な時期がくれば呼んでくれるのではと思うようになりました。

ここまで書いて十数年前。大阪のある占いの大家に教わった話です。その方は大先輩でして、やはり本を探し求める旅をされていました。その方いわく、「ある本を本棚に置いておくと、不思議と他の本を呼んでくれるんだよ。」とのこと。その当時は、そんなもんかなあと思っていましたが、今ならそういうこともあるかもと素直に感じます。

「そろそろお前も読んでもいいぞ」と本が呼んでくださる時期を待ちながら、まだ出会えていない本を夢見ましょうか。

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画相と妄相の比較

以下、「神秘」第一巻五月号、觀水學人先生の「畫相を主題として」より

「然らばその妄相の畫相と本當の畫相とどうして鑑別するかと云ふと、その仕方は譯ないのでして、本當の畫相ならば、假に此處に居る人の顔へ畫相が出て居ると云ふ場合にですな、人相も見えなければ研究もしたこともないと云ふ他の人に、此處に斯う云ふ畫相が出て居ると云ふことを言へば、其の人に見えるのであります。(中略)これが今お話しました妄相の方へ行きますと、全然見えやしないのです。」

ここで觀水學人先生がおっしゃている重要なことは、

*画相は誰にでも見える。

*妄想(妄相)は他の人には見えない。

という点です。

これは簡単そうですが、自分でやってみると難しいのです。やはり、その道の達人のご指導を受けないと、自分の妄想なのか、本当の画相なのかがわかりません。今日は、その達人先生の御講義の日なのですが、「ほら、ここに画相がある」と指さされる先を見ると、なるほど目があって、輪郭があって、という具合になるのです。

こういう機会は本当に貴重です。心から感謝申し上げます。

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太陽という基準

毎度の如く、意味不明の書きなぐりです。

太陽は地球上のすべての存在の基準です。

というと、なんか宗教っぽくなるのですが、フレイザーなどをみると、古来よりどの地域でも朝日などは崇敬されていたようです。一部に忌み嫌う地域もありますけど。

それで視点を変えまして占星術です。

尊敬しておりました先生も太陽を中心にチャートを分析しておられました。

インドでもスーリア・ラグナとして機能します。

西洋ではソーラーアークです。

このソーラーアークは、何を基準とするかといいいますと、厳密な点を除くと、おおよそ地球の自転と公転との照応関係を基盤に置いています。1日が1年というわけです。

1日で動く太陽の実際の動き(地球の公転)を他の天体の動きの基準にする、これがソーラーアークです。

これだけでも占星術に詳しくない方からみると、なんと強引な展開でしょうと思われますね。

強引ついでにこういうのもあります。

地軸の傾きのため、太陽は赤道から北にあるいは南に傾いてみえます。この傾き、すなわち太陽の赤緯も基準にしちゃえというわけです。

この変換は専用のソフトを使うか、Conversion Tablesがあれば、およその値は簡単に変換できます。

この変換表は、隈本先生のご著書にもあったわけです。

そんでもってメビウスの輪のごとく基準になるようです。

ちょっと飛んで、季節を超えて昼の長さや夜の長さも、やはり照応するようです。

となると、太陽のライズであるポイントを可変的な東とする見方もありえます。

何が言いたいかといいますと、太陽はやっぱり基準になるくらい偉いなあというわけです。

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庭のベンチで(だらだらと意味もなく)

1 2 とっても狭い庭なんですが、うちには庭にベンチがあります。仕事に疲れると、天気の良い日は、ベンチに座ります。このブログを書く前、さっきも座っていました。

Photo_3 流れる雲を見るのは、子供のころから好きです。実家の屋根に登って、よく雲を見ていました。その屋根に無線アンテナをたてた時はうれしかったなあ。

雲ついでに、虫のクモの糸は強い。からみつくし、指ではらっても、なかなか切れない。うーむ。

Photo Photo_2 庭に植えたレタスは虫に食べられて全滅でした。クランベリーはなんとか生き残っていますが、私はおなかを壊すので、子供がつまみ食いです。と、そこへ、小学生の真ん中が返ってきます。手には帰り道で拾った栗をもって。ここ数日は、この次男の持ち帰った栗がいっぱいです。食べると、これがおいしい。我が家の食糧自給率を上げようとしますが、まあ、こんなもんです。

ターシャが、この前、亡くなられましたが、うちはあんなに勤勉に自然生活はできそうにありません。便利なものに慣れてしまっているので。でも、星が見えて、草のにおいがして、風がやさしい自然は好きです。

「季節もよくなったから、ベンチを塗りなおさないとね」

「って、言うだけで、自分はしないじゃん!」

はは、やぶへびでしたか・・。

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